なぜ、教えるのに教員免許状取得者がいるのか

山岡周五郎さんの言葉に、「慶應5年何月何日に何があったということより、大坂の淡路町の丁稚が、どのように悲しい思いをしたのか。そして、その中でどのようなことを考えて、行動したのか」を考えるのが必要だと話しておられます。情報は、いくらあっても偉くなれない。自ら考えること。たとえ外部の情報が無くても、自ら考えることで、知識を自らの血肉として偉くなれることを教えるのに、国の免許要りますか。

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